誕生
秋田県の田んぼに囲まれた平野部で生まれ育ちました。
小さいころは、犬・ネコ・文鳥・インコ・カメなど、多くの動物と生活しました。
3歳~5歳ぐらいのとき、家族で動物園へ行って初めての迷子。
「あ!母ちゃんだ!」と思って握った手が、まったく違うお母さんで驚いて号泣しちゃいました。
その動物園からの帰り道で立ち寄った飲食店で、テーブル上で周回して流れるそうめんと初遭遇!
その記憶は今でも鮮明に思い出せます。
保育園時代
6歳のとき、保育園へ行くのがものすごくイヤでした。
「入園式」と書かれた看板の横で母ちゃんと記念撮影。
写真の顔は大泣きしたあとで、左手にはハンカチをギュッと握りしめていました。
そして、保育園の給食が口に合わず、私だけ特別に母ちゃん手作りの弁当でした。(ごはんの上にスクランブルエッグをのせた弁当)
小学生時代
小学1年のとき、たし算をマジメに勉強しなかったせいで、今でも6~9までの数字を使ったたし算が苦手です。
小学2年のときは、阪神タイガースとブルース・リーの大ファン!!
同じころ、テレビでアメリカの大学バスケやNBAの試合を見てバスケにもハマりました。
小学3年のとき完全にカンフー映画にハマり、真剣に中国の少林寺で修行したくて両親に嘆願!
しかし、「おめ、中国語しゃべれねべ!」と母ちゃんに一喝され断念しました。
同じ時期に、学校から帰宅後に放送していた海外サッカーの試合を紹介する番組(三菱ダイヤモンドサッカー。秋田県での番組タイトルは「世界のサッカー」)をたまたま視聴。(ノッティンガム・フォレストVSエバートン)
ゴール後に選手と観客が狂喜乱舞する光景を見て鳥肌が立ち衝撃を受けて、それ以降サッカーにどハマり!!
サッカーがしたい!と思いましたが、当時の田舎ではサッカー人気が全然なかったですし、スポ少もありませんでした。
小学4年のとき、近所の友達みんなが「柔道スポ少」へ通っていたため、自分もなんとなく柔道を開始。
その後、学校の心電図検査で「心室性期外収縮」という心臓病が診断されました。
小学5年のとき、念願だったバスケスポ少に入団しましたが、心臓病のためドクターストップが掛かり退団。
このころ、庭に迷いこんできた子猫をウチで飼うように。オスで名前は「チャコ」。(19年も長生き!)
小学6年のとき、また柔道スポ少へ入団。
いま気づいたが、バスケはダメで柔道はやって良かったのかい?(苦笑)
中学生時代
中学へ入学し、部活もそのまま柔道部へ。
中学1年のとき、秋の新人戦で個人の軽量級(当時クラス分けは軽量級・中量級・重量級)に出場。
運の良さで初戦はシード。そして、出場者が少なかったため、いきなり準々決勝!
さらに運は続いて、準々決勝の相手は強豪校の選手で、「こりゃ負けるな」と覚悟をしていました。
ところが、大会直前の練習中に負傷して出場を辞退!
不戦勝で、誰とも対戦せずに準決勝進出と第3位が確定!!(この大会では3位決定戦なし)
ちなみに、その選手は2年後の地域大会で個人優勝して全県大会へ出場した強者。
準決勝の相手は私より実力が劣る同じ学校の友達で、背負い投げでかんたんに技ありを取って、袈裟固めで抑え込み合わせ技で一本を取りました。
いよいよ決勝の相手はもう一つの強豪校の選手で、長身のやせ型で背負いやすそうなタイプ。
人生初の決勝の舞台は、多くの観客に圧倒されて緊張し、対戦相手以外は真っ白な世界。
相手と組んだ途端、すぐに背負い投げへ入ろうと思ったが、ものすごいチカラで引き寄せられる。
「すげ~チカラ!」と思った瞬間に大外刈りをくらい、いとも簡単に投げられました。
いま思うと、緊張してたのを見透かされていたのかな?
倒れた場所は赤畳の上で、もう少しで自分の体が場外へ出る位置。
場外に逃れようと、今まで出したこともないチカラを発揮して”自分の体のみ”やっと脱出。
ところが、先生・友達・父兄のみんなから「相手の体も出さないと技が解けないんだよ!」と言われ、そのとき初めて寝技のルールを知ることに。(苦笑)
慌てて相手を引っぱり出そうとしたけど、長身の選手だけに脚が長いし、自分のパワー残量もゼロ。
惜しくも準優勝で終わったが、運の良さを考えれば上出来!
後日、学校の全校集会で改めて表彰式が行われ、壇上から下りるときに上級生たちから「あいつ強かったんだな」という会話が聞こえてきて誇らしかった。(内心は「くじ運が良かっただけなんすけど」と言いたかった)
中学2年のとき、またドクターストップが掛かりマネージャーに。
この時期、80年代の洋楽とヘヴィメタルにハマった♪
洋楽は友達からの影響で、ヘヴィメタルは兄の影響から。
中学3年のとき、高校の進路先を地域のサッカー強豪校に決定。
小学生のころから学校の掃除だけはマジメにやっていたけど、そのことがついに吉と出る!
ある日、たまたま校長室の掃除当番でいつも通りにやっていると、「いつも掃除マジメだし推薦入学を受けてみないか?」と教育指導の先生からラッキーなお誘いの話が舞い込んできた。
学力がなかっただけに迷わず「受けます!」と即答!
面接の練習を毎日入念に繰り返して、見事に地元の工業高校(工業化学科)へ推薦で合格しました。